i88i1123i1028’s diary

書物が大好き❗

葛洪(かつこう)

(道教医学の祖となった神仙家)

「葛洪」"かつこう"
{283年〜343年}

葛洪は、神仙思想の集大成を行うとともに、

煉丹秘術の探求に努めた晋代(265年〜419年)の
道士である。

彼は若い頃、武功を立てるが、

煉丹秘術への思いを捨てがたく、

丹砂 (別名として"賢者の石") が発掘できる

交址(現在のベトナム)に向かった。

しかし、広州まで来たとき、

時の長官がそれより先に行くことを許さなかった。

葛洪はやむなく羅浮山 (らふざん) にとどまり、

煉丹を研究し、『抱朴子』(ほうぼくし) の執筆に
専念した。

20歳のときに書き始め、34歳で完成した本書は

神仙道、仙薬処方などを述べた内篇20巻と

儒学思想を綴った外篇50巻からなる大著。

金丹 (仙人になれるという仙薬) をつくるための

雄黄、丹砂などの鉱物、不老長寿薬のための
五芝、ブクリョウ、地黄などについて記載されている。

本書の意義は、道教の理論構成を初めて明らかにしたところにあり、彼によって道教医学が完成したと言っても過言ではない。

葛洪は道教究極の姿である

尸解仙(もぬけの殻のようになること)

になって亡くなったと伝えられる。

81歳であった。

張仲景(ちょうちゅうけい)

(民衆を啓蒙した漢方薬の始祖)

張仲景"ちょうちゅうけい"
{145または150年〜208年}

「華ダ」とともに、
後漢の二大医聖といわれる。

河南省南陽県の人で、彼が著した
『傷寒雑病論』(しょうかんぞうびょうろん)は
漢方の古典として現在でも名高い。

本書を著した動機は、
建安年間の流行病で10年間に身内の3分の1が
死亡したためと、序文に書いている。

張仲景は名医・張伯祖に医学を学んだ。

張伯祖(ちょうはくそ)
から伝授された医術をもって、張仲景は民衆に対し、病気にかかった時には当時さかんに行われていた迷信や呪術を排し、正しい治療を受けるよう教育して回った。

彼が提唱した急性病の経過を解説した
『三陽三陰説』(さんようさんいんせつ)

病を鑑別診断するための
『八鋼理論』(陰陽・表裏・寒熱・虚実)

この二つは現代まで踏襲されている。

彼は薬剤を飲みやすくするために
丸剤、散剤、軟膏などもつくった。

書物ではほかに
『金匱玉函方』(きんきぎょくかんほう)がある。

だが、現在伝わっているのは
北宋の「王洙」(おうしゅ)が編纂した

金匱要略』(きんきようりゃく)

のみで、『傷寒雑病論』が急性病を扱っているのに対し、こちらには慢性病が記載されている。

華ダ(かだ)

こんばんは。

本日も寒い一日でしたね。

お風邪など召しませぬように、お気をつけ下さいませ。

風邪は「万病の元」と申します故に。


さて、今晩はあの有名な「三国志」にも登場する名医を、ご紹介致したく存じます。

どうぞ覗いていって下さいね。


(神業的な外科手術を施した名医)


華ダ"かだ"
{141〜208}

華ダは世界で最初に麻酔薬を使い手術を行ったとされている。

あるとき激しい腹痛を訴えて、
車夫(車を引く職業の人)がやってきた。

病人を診察して華ダは手術をするほかはないことを家族に告げ、「麻沸散」(まふつさん)という麻酔薬と酒を飲ませ、患者の意識がなくなったところで開腹手術をして病巣を取り去った。

車夫は術後、7〜8日で動けるようになり、
一ヶ月後には元の生活に戻れたという。

しかし、残念ながら麻沸散の処方は後世には
伝えられていない。

華ダが創ったもので、
今日まで伝わっているものに導引(気功)がある。

これは「五禽戯」(ごきんぎ)と呼ばれ、

華ダは、

「ちょうど熊が木にぶら下がったり、トビが
首を振るようにしたり、腰をひねったりする
ように諸関節を動かしていれば老いやすくな
らない」

と述べている。

華ダは非業にも獄死する。

それは「三国志」の魏の曹操の"侍医"(専任の医者)となることを拒んだためであった。

獄吏(牢獄の番人)に一巻の書を残そうとしたが、
恐れて受け取らなかったため、焼いてしまったという。


歴史の中では非業の死を遂げた偉人は数多くいらっしゃいますが、この「華ダ」もそのひとりと言って過言ではない。

自身の身に付けた医術・知識の粋を後世に残すこともできず、獄中で非業の死を遂げた。

報われないことこの上ない。

しかし、中国では現在でも「神医」として、
また世界でもその名を残している。

淳于意(じゅんうい)

おはようございます。

昨日より「東洋医学」の本を読んでいますので、ソレに関係する偉人をご紹介出来ればと思います。


(最古の臨床記録を残した万能医)

淳于意"じゅんうい"
{紀元前205〜紀元前140}

淳于意はかつて斉の国の大倉長(備蓄庫の責任者)
であったため、"倉公"とも呼ばれる。

彼は若い頃から、
陽慶"ようけい"について医学を学んでいた。

陽慶が70歳になったとき、
子どもがいなかったため、彼に扁鵲の脈学書、
五色診病の方法など秘法の全てを授けた。

あるとき彼が上訴され、罰せられそうになった。

5人の娘が取りすがると、彼は

「男子がいないので役立たない」

と言って嘆いた。

それを聞いた末娘が宮中の召使いとなるので
父を許してほしいと嘆願書を書き、
それを読んだ帝があわれに思って淳于意を許した。

後世に語り継がれている逸話である。


史記』の中の「扁鵲倉公列伝」には

淳于意の25の臨床例が載っている。

それには患者の氏名、病状、治療法、経過などが詳しく記載されており、最古のカルテといえる。

疾患別で一番多いのは内科で、
次いで婦人科、小児科、外科、歯科と続く。

望診、脈診を重んじ、
25症例のうち15例を快癒させたという。


以上。

如何でしたか。

東洋医学」には興味があり、

読んでいましたら面白いのですが、

言葉や専門知識が難しい為、

ワタクシなどは読み返し読み返ししないと理解が出来ません…💦

しかし、歴史的に見れば(文献や人物のこと)

とても細かい処まで書いている本もありますのでオススメです。

これからは書籍等もご紹介出来ればと思っています。

ではまた。

扁鵲(へんじゃく)

こんばんは。

急なお話ですが…

ワタクシ、
歴史や妖怪等が大好きで、
そういったお話も此方のブログに書いて行ければと思います。

ご興味がある方は是非覗いていって下さると、有難いです。

では早速。


(死者を生き返らせた伝説の神医)

「扁鵲」"へんじゃく"
{紀元前406〜紀元前310}

中国最古の医聖。

若い頃は、秦越人(しんえつじん)といった。

司馬遷(中国の前漢時代の歴史家)の記した
史記』に登場する名医。

伝説的要素が多く、
数人の名医を代表させて書かれたのではないか?という説もある。

「扁鵲」は若い頃、旅館の支配人であった。

ここに隠者・長桑君(ちょうそうくん)がよく

逗留したが、扁鵲は長桑君がただ者ではない事を見抜き、手厚くもてなしていた。

十数年経った時、
長桑君は扁鵲に誰にも言わないことを条件に
「秘伝の薬」を授け、それを飲んだ扁鵲は病人の体が透けて見えるようになった。

こうして医師となった扁鵲は、各地を診察しながら歩いた。

さまざまな逸話が残る中で最も有名なのが、

「死人を蘇らせた話」であろう。

ある国の太子が急病で死んだのを聞き付けた

扁鵲が宮殿に行ってみると、

太子は死んだように見える

「尸厥病」(鬼のもたらす病気)

で、扁鵲は鍼灸・膏薬(こうやく)と漢方薬
生き返らせたという。

扁鵲は各地で偉大なる業績をあげたが、
最後は高名を妬んだ秦の大夫(医師のこと)に
殺害されてしまった。


という事の顛末で締め括られる。


如何でしたか?


こんなお話をちょくちょくしていければと思いますます😄

ではまた。

忌避した男(過去の失敗談)

「忌避」

この言葉の意味する処は

嫌なことから逃げる

現実逃避

となるそうです。

正にワタクシの今までの人生、いや、未だにこの生き方を実行しているのでしょう。

現在26歳になるワタクシは、今までに職を五回変えました。

この年齢で五回も職を転々としていること自体

正に「不実」(誠意が欠けている)という言葉が、

付いて廻るのが見て取れることでしょう。

情けないお話です。

(この五回の職を転々としたお話を、
一回ずつに分けてお話出来ればと思います。)


一回目のお仕事は、「介護福祉士

20歳の頃でした。

この頃はまだ夢も希望もあった、
本当に、絵に描いた様な新社会人でした。

18歳の頃に介護の専門学校に通い、
「国家資格」を取得してのスタートでした。

それでも、
「不実」なスタートを切ってしまったのです。

いや、先ず学生時代から不味かった。

「専門学校に通っていた。」

のではなく、"通わせて頂いた"

と言った方が妥当でございましょう。

・学業は下の下。
・アルバイトもしていない。

となれば、
勿論、お金等持ち合わせていない訳で、
つまり入学金すら払えなかった訳です。

入学試験は何とか通りました。

入学金は奨学金で補填させて頂きました。

総額200〜300万程。

この奨学金は卒業後、

介護福祉士として三年間働けば返済はしなくて良い」

といったものだったと記憶しています。

つまり「借金」とワタクシは解釈致しました。

しかし、
当時のワタクシは前述の通り、
「夢と希望」に溢れていました。

頑張って学業に取り組み、
「国家資格」を取得して卒業後、
介護を必要としている方々の少しでもお役に立てれば!

等と、
意気盛んで毎日を過ごしておりました。

なので「奨学金」等、
全く気にもしませんでした。

三年間どころか十年〜二十年でも働いていこうと思っていたからです。

今思えば本当におめでたい阿呆な考えでした。


卒業後(何とか国家資格も取得出来て)、
ワタクシの地元の「特別養護老人ホーム」(特養)
に無事に就職。

さて、
順風満帆な人生が始まる!

と、意気揚々としていました。

ところが、
やはり学校で教わった事が、
実際の現場で活用されている訳では無く、
介助方法等はデタラメ。

「時間通りにこの作業を終わらせなければならない!」

「とにかく速く!」

これが基本となる訳で、
ご利用者の方の事は二の次なのです。

しかし、
それは仕方の無い事で、
現場の方々が一番苦しい立場に有ることは間違いないのです。

何せスケジュールが詰まりに詰まっていますし、上司・看護士からはせっつかれるし、果てはご利用者の方のご家族からの苦情も対応しなければならない場合もありました。

かといって、
ご利用者の方を一番に考えなければならないだろう!と、

当時のワタクシは理想を追い求めていました。

今ではよく分かります。

"理想"と"現実"の難しい一線を。


それから一ヶ月半が過ぎてから…

ワタクシは職場で倒れました。

意識が朦朧として足が動かず立てない様になってしまいました。

"先天性てんかん"という病気です。

中学生の頃に発症して、
そのままズルズルと付き合ってきた"病気"でした。

職場の方々から手助けをして頂き、
空いていたベッドで横になり回復を待ちましたが、足が動かせずそのまま病院へ。

そして、そのまま入院となりました。

精密検査の結果、
"てんかん発作"によって、
脳神経に異常をきたし血管が切れかかっていたそうです。

その後、
治療・リハビリにより徐々に回復してきましたが、今度は精神不安定に陥ってしまいました。

"恐怖心"です。

入院してから一度、
職場の上司がお見舞いに来て下さいました。

「大丈夫か?」
「ゆっくり休んでまた元気に来てね!」
等々。

何と有難いことか。
こんなにもワタクシを気遣って下さるとは。

しかし、
ワタクシはその言葉の期待に沿う事は出来ませんでした。

毎日毎日どんな事をしていても頭を過るのは、

「介助中に発作が出たらどうしよう?」

「もしご利用者の方と一緒に倒れて怪我を負わせたら…」

「職場の方々にまたご迷惑を」

こんな事ばかり考えていました。

"恐怖"と"不安"に苛ませられる毎日…。


結果、
一ヶ月の入院生活を経て退院。


その二日後、
荷物をまとめ職場に行き"退職届"を提出。

深々と頭を下げ「申し訳ないです」と連呼。

上司は、

「いつでも戻ってこい」

「待ってるよ」

と言ってくれました。

ワタクシは、
遂に戻ることはなく逃げ去るように駆けて行きました。

何故か?

後ろめたさがあったからです。

"病気だから"
"身体が思うように動かないから"
"他人を傷つけたくない・迷惑かけたくないから"

全て冷静に考えて下さい。

"逃げ口上"なんです。

若しくは"言い訳"です。

何の責任感も無くただ"現実逃避"しただけなんです。

その結果、
手元には莫大な「奨学金」(借金)・(入院治療費)
が残りました。

どうしたと思いますか?

母親に泣きついて全額返済してもらいました。

クズです。

文字通りの愚か者です。

今気づいたところで。

未だに母親には迷惑を掛けています。

母親にも他人にも迷惑を掛けて、
あまつさえ甘え腐った考えで現在に至るこの愚か者の人生程、人道に反し醜い様は無いでしょう。


"逃げる"事程、
愚かで情けなく、ずっと後ろに付きまとうモノはありません。

どんな状況に陥っても、
踏みとどまる事こそ自我を保ち、
他人に迷惑を掛けず、人間らしく生きていける道なのです。

ワタクシはそう感じています。

もう遅いことですが…。

プロフィール

おはようございます。

はじめて此方のブログを使わせて頂きます
"愚者"と申します。

"愚者"というのは、
勿論本名ではありませんが、実名を載せるのはまだ抵抗がありますので、ワタクシの今までの人生を振り返ってみて、この名前を名乗ろうと思った次第であります。

このブログは、
ワタクシの「過去の失敗」や「妖怪」「歴史」
等、統一性の無い様々な事を書いていこうと思っています。

皆様に読んで頂ければ幸いに存じます。


ワタクシの簡単なプロフィール

好きな物:神秘・オカルト・歴史
嫌いな物:ウソ・差別・偽善者
趣 味 :読書(漫画・文庫・とにかく何でも)
生息地域:福岡県のド田舎

こんな感じです。

あっさりしてますが、
あまり長く書くのもくたびれるので…。

ゆるりゆるりと書いていきたいと思っていますので、どうぞ皆様宜しくお願い致します。

ではまた。